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2015年 08月 17日
さて島原城のことだ。
「まず歴史を」、と語り出したら、僕も言いたいことが山のようにある。この1月に『幻の廊下橋』を公開にこぎつけたわけで、「島原城」に対する思いは半端ではない。話し始めたら、いつまでも今抱えている問題にたどり着かない。この9月議会のメインテーマの一つにもなる訳で、同時並行で、様々な角度から問題提起をしていこうと思う。 先ず、明治廃城後、今の形に整備されるまでの経緯だけは整理しておこうと思う。 1868 明治01 明治維新 1913 大正02 島原鉄道 1931 昭和06 山側通路 1960 昭和35 西の櫓(やぐら)復元 1964 昭和39 天守閣復元 明治維新で廃城となり、土地城郭は民間に払い下げられ、建物は解体されたが堀も石垣もそのまま残ったようだ。 島原鉄道が現在地に島原駅を作って開業したのはそこが当時、島原城の城下町として島原半島で一番の中心だったからだ。その後は島原駅・島原鉄道のお陰で島原の中心性を保ってきた。 島原城本丸への通路(現在の入り口)が堀を埋めて出来たのは昭和のことだから、島原城が観光の拠点になって行くのはずっと後のことだ。 僕(松坂)が子供の頃は、(まだ土地の所有は民間の方だったと思うが)公園のような遊び場だった。皆、「ゴカイに遊びに行く」と言ったり、小学校の長距離持久走の定番コースでお堀の周りをぐるっと1周走ることを「ゴカイ一周」と言っていた。 ゴカイは漢字でどう書くのだろうと質問したら、天守閣が五階(五層)だからじゃないかとおっしゃる方がいるが、当時はまだ天守閣は姿が無く、現天守閣の場所は土台の石垣だけが高台になっていた。(僕はゴカイの「ご」は「御」だろうと思っている。御所の御。) 当時(昭和30年代)は、今ほどモノは豊かではなかったが、いわゆる「3丁目の夕日」時代だ。雲仙国立公園(昭和9年~)などもあって、半島の中心島原は、戦争をはさんだ後は徐々に観光地にもなって行った。旅館なども今より街なかに林立していた。高度成長期の最初のピークは東京オリンピックの年。この年1964年、島原城も天守閣が復元された。 天守閣の横には売店が出来て、登記簿によると、島原城の運営をするための『島原城振興協会』が法人設置されたのも、同じ1964年のことだ。それから50年、島原城は何処へ行くのか? 低成長の時代になって、役所という最大の既得権益集団は、自分たちの人件費は絶対に譲らないという論理で、動き出した。 その後、「同じ仕事をすれば、公務員は(人件費が)高くつくから、民間人にやらせよう。」という前時代的な(奴隷制度に時代のような)考え方が常識になった。公務員の給与は民間がどんなに冷え込んでも、引き下げることをしなかった。官民格差は広がるばかり。そんな中で議員に政務調査費(政務活動費)が配られ、議員もまた公務員と同じく既得権益集団の側に組み込まれたのであった。 同じ時期に「指定管理者制度」が動き出した。同じ仕事を公務員がやればカネがかかるから、民間人にやらせようというわけだ。実はすでに、市の運営する様々な施設は名目上直営だったが、公務員ではない、年次雇用やパートや別団体を間に入れて、実質は民間人の安月給で動かし始めていた。今さら指定管理制度に移行しても、何のメリットも経営改善も合理化もないのに、名目だけ「指定管理」に移行し、責任者が曖昧になるというだけの制度に移行したのである。
by mmatusaka
| 2015-08-17 16:15
| 島原の自治と議会
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