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2018年 04月 28日
島原の老舗旅館『南風楼』が創立110周年ということでお祝いの席に呼ばれた(と言っても会費制)。議員という身分だと、上座の方に席が用意される。百年(110年)の歴史からすれば、たまたま現時点での席順、物故者を含め多くの先人先輩の苦労があったのではないか、そして現在。島原高校合唱部のコーラスで幕開ける、なかなかの演出だった。現社長の田浦氏の挨拶には心打たれた。 50年とか100年を節目というのであって、110年はちょこっとやりすぎじゃないのか(呼ばれれば、頑張っている南風楼を応援している立場上、出席せざるを得ないし……などと)。なぜ110年なのか、その話を聞いて得心が行った。4代目田浦氏の前の代の村中3代目社長は僕と同世代でもあり、「島原城下ひなめぐり」イベントを組み上げた立役者でもある。高度成長期に流行ったホテルがお客さんを囲い込む風潮から観光客を市内に解放して周遊してもらおうと、試行錯誤の頃だった。僕も議員になりたてで、島原の観光は周遊にあり!と思い、同調した。 しかしその頃はホテル経営としては苦難の時代だったという。普賢岳噴火の後遺症で島原のホテル業はどこも大変だった。その落ち込みから倒産の危機を乗り越えてきたのだという。その最大の功労は何と言っても現4代目田浦社長の努力あってこそと誰もが認めるところであるが、それでも苦しい時期を3代目がつないでくれた賜物であると、3代目にエールを送ったのだった。100周年が出来なかったということなのだ。そういえば百周年パーティーは無かった。それどころではなかったというのだ。 僕らの円卓には女将(3代目婦人)が同席していたのだが、4代目のユーモアを交えた3代目持ち上げ挨拶に、苦しかったその頃を思い出したのか涙を流しておいでだった。思わずこみあげて、もらい泣きしてしまった。 今年は島原鉄道も創業110年という。今僕らが試行錯誤している『森岳酒蔵』であるが、実はこれもまたその頃である。あの独特の「南風楼」の字を揮毫したのは、南風楼に宿泊した(正岡子規門下の)河東碧梧桐という。我が家(わかば写真館)の前に建つ森岳街路灯には(同じく子規門下の)高浜虚子作「山裂けて砕け飛び散る島若葉」の句を刻んでいる。色々つながってくる。 この日(4/27)は、この宴の前、南風楼お隣、福祉センターで講演会があって「介護」のお話を聞いた。認知症に苦しむ両親を介護する家族の話、苦労を乗り越え、自分を大切にしながら自然体で介護を続ける姿。(暗く重い姿を想定していたのだが)思いのほか人生を明るく過ごしていらっしゃる、認知症家族の方たちに深い感銘を受けた。 霊丘公園の海辺の丘。こんな(忠魂碑だのモニュメント墓碑が取り囲まれた)施設があったっけ?と。子供の頃よく遊んだ場所なのに記憶に無いものだった。建立時期を見ると、昭和57年、と、あった。ぼくが28歳の頃となる。記憶が無くても、一安心なのだが、ならば30年以上ぶりにこの丘に登ったのだろうか。
by mmatusaka
| 2018-04-28 19:41
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