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2025年 08月 19日
「緬甸」って分かりますか? ヒント『○○の竪琴』で、分かりますか。
![]() ビルマは今はミャンマーという国名になっている。 僕の母親(内島家)には何人も兄さんがいて、ここで紹介する二人は、 四男常男(大正4年1915生まれ)と 五男吉郎(大正7年1918生まれ)であります。 祖父(母たち兄弟の親)は子だくさんだけど、その姉は朝永家に嫁いだものの子がいなかった。 で、四男常男は、15歳の時(大正5年1916)おば(父の姉)の朝永家の跡取りとして養子に入った。 徴兵のルールは詳しくは知らないが、跡取り(ふつうは長男?)や特定の職業や学生は免除されて、健康な次男~に先に赤紙(召集令状)が届いたようだ。 (四男常男は伯母の家督を継いでいるので長男扱いなのか、四男を飛び越して、成人したばかりの吉郎が先に召集されたようだ。) 五男吉郎は昭和15年1940応召して中国へ。その後内地(実家)には音沙汰なく、昭和18年5月に死亡報告が届いた。曰く 昭和十五年三月三十日中華民國廣西省邕寧縣北方約九粁付近ノ戦闘ニ於テ戰死セラレ候條此段通告候也 と、臺灣第三部隊長名で昭和18年5月8日付けで通告されている。※1 祖母(母の母)は、この息子の戦死通知を受け取り、悲嘆にくれたという。 ところが、実は吉郎伯父は、中国で拘束され5年以上にわたって捕虜として過ごしていたのだった。昭和21年夏。忽然と帰国してきたのである。浦島太郎のような話である。 この間、日中戦争はそのまま太平洋戦争(大東亜戦争)で継続、家督相続人であれ、学生であれ容赦なく徴兵される時代になり、吉郎伯父の兄常男伯父も遅れて召集された。昭和18年か19年だと思う。 朝永常男は、昭和19年11月1日、緬甸国北セウイン州ナンカンニ於テ戰死。 ※2 その報が届いたのは昭和22年4月。届いた骨壺(箱?)には骨はなく、紙切れだけが入っていたという。 僕の母親は内島雅子(昭和3年1928生まれ)だったわけだが 昭和15年に、兄常男に続いて、朝永家の養女になっている。 戦局が進み、常男もいつ召集されるかわからない時代。女子には徴兵は無いので?朝永家の相続の押さえとして養女縁組となったようだ。 常男は帰らぬ人となったが、帰らないはずだった吉郎が、帰ってきて、その後、吉郎は、昭和23年、朝永家に養子となり、家督を継いだ。 お役御免となった、僕の母は、直後、内島家に復縁。翌年昭和24年、松坂秀應(僕の父)と結婚する。 内島雅子→朝永雅子→内島雅子→松坂雅子。 母は、女学校時代学徒動員で、川棚で魚雷を作っていたというが、同級生たちからは「朝永雅子さん」と呼ばれていたわけだ。 ※1は、その18年5月8日付の死亡通告書現物による。 (同内容が、戸籍上も5月25日付けで処理されて記載されている。) ※2は、戸籍にて確認。 してみると、戸籍では、死亡の際、戦死による死亡の場合は「死亡」ではなく、「戰死」と記録されているようだ。
by mmatusaka
| 2025-08-19 17:22
| 戦争と平和
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Comments(1)
8月は「先祖」について考えることが多くなりますね。
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