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2025年 08月 28日
![]() ![]() ************************************* 「ペンは剣よりも強し」という意味合いのラテン語が添えられた、このステンドガラスは三田の慶應義塾大学図書館の階段の踊り場にある。この階段を上り下りするだけで、何か学問の入り口に立った気分になれた。志を遂げるのだ!と謙虚な気持ちになれた。
このステンドガラスの向こうは図書館の裏山でその一角に小さな石碑があって、島原藩屋敷跡であることが刻まれている。自分の通うことになった大学が、島原ゆかりの地、深溝(ふこうず)松平家の中屋敷跡だと知ったのはずいぶんあとのこと。少なくとも入学時点では全く知らなかったので、あとで知って奇遇な運命を感じたのであった。
慶應の文学部は入学時点ではまだ学科専攻は決まっておらず、1年間の教養課程を日吉(横浜)で過ごし、2年生になって、三田に移るとき希望の学科に入る。1年の教養課程でのちに師事することになる檜谷昭彦教授(国文)の講義に心酔した。僕は国文学科を選んだ。 在学中、父親が病気になって、帰郷したまま期末テストを受けず、留年したまま家業の写真業に従事していた。そのまま除籍され「慶應義塾大学文学部中退」を決め込んでいた。マンモス大学の一学生という自分は都会にいると透明人間になっていた。見られていることをなぜか意識していなかった。(都会に行った田舎者はしばしばそういう錯覚に陥る) 当時講義を受け持ってくださっていた関場武助教授から突然島原に電話がかかってきた。「ずっと休んでいるけどどうしてるの?」と。高校と違って担任がいるわけではないのに一教授が、僕のことを気にかけてくれたのである。3年になってゼミが決まればゼミの先生が担任のような感じになるのだが、2年生は60名(ほどだったと思う)の塊。その中の一学生が近頃見えなくなった、どうしてるのだろう?と。 うれしい電話だった。お父さんの病気はどうなのか?復学はできないのか?当時慶應文学部の受験は競争率40倍の難関だった。合格は実力だけでは勝ち取れない、運も半分だ。いったん社会に出て再度受験して、もう一度合格できる保証はないよ。休学の手続きを取って籍を残しておく方がいいよ。と強く言ってくださった。休学と言っても、無料ではなく、授業料と同額を納めなければ籍は残せなかった。どうせ復学は無理(親の完治は無い)だから学費は捨てることになる。当時年間学費は18万だったと記憶している。 しかし関場先生は、多少無理しても、とにかく学費を納め休学手続きを取れと強く言ってくださった。そこまで心配してくださるならと母親もその勧めを受けよと、賛成してくれた。このことで僕の志は途切れることなくつながった。関場先生のことも慕ってはいたが、透明人間感覚で、向こうから見てもらっていると思っていなかったので、本当に身に染みてうれしかった。僕はたぶん学者向きではないのだが、学業を続けようという思いを持ち続けられたのは、学者気質とかあくなき学問への探求心ではない。先生への感謝の気持ちである。
幸い父親は快方に向かい、僕は再度大学に戻ることになった。あの時、先生からの電話が無かったら僕の人生は全然別のものになっていた。大きな転機だった。
たくさんいる学生の中で僕のことを覚えてもらうきっかけがあった。
実は関場先生たちは、島原の松平文庫の調査に来られたことがあったのだそうだ。多分それは僕が高校生の頃だったと思うのだが、当時の文献調査では古書籍を写真撮影しなきゃならず、松平文庫を蔵する島原図書館の近くの写真屋の親父さんに写真の撮り方など懇切丁寧にお世話になったのだという。それが僕の父親だったというわけだ。
2年生になると国文科学生と教授たちの顔合わせオリエンテーションのようなことがあった。そこで先生方は学生に出身小学校の校歌を歌わせた。校歌を聞けばその出身地が分かるというわけだ。校歌を聞いて出身地を当てるゲームをするような自己紹介イベントだった。 前に筑紫の海清らかにほう学校名の出てこない校歌だね。 筑紫の海ぐらいしかヒントがない。 ……で、島原第一小学校だと、自己紹介。
「ひょっとしてきみ写真屋さんの息子さんかい?」と。 松平文庫の調査を通して知っている島原で、先生たちの記憶は写真屋ぐらいしかなく 全くのあてずっぽうで、先生たちのうちわ受けでしかなかったのが 「え。どうして、僕が写真屋の息子だと?」 これには先生たちの方が2度びっくり。 あの写真屋さんの息子だったら面白かろう程度の冗談が本当になるのだから! こんな奇遇なことがあるんだねえ。と。
白状するが、僕の志望は何が何でも慶應だったわけではなくたまたま、東京に行きたかっただけで、私立ではほどほど学費の安かった慶應にたまたまヒットしただけで、しかもまさか国文学に行くとは思ってもいなかったわけで…… 今考えても不思議な縁でつながっているなあと思うのであります。
************************************ その後国文学研究室に在籍していた人と知り合うことになり、このお話をして、関場先生らの消息を尋ねた。何人かの当時の教授たちの消息を聴くことが出来た。「関場先生は、最後まで、あなたみたいな生徒に声をかける面倒見の先生だった」とのこと。「今も名誉教授で在籍され、ご活躍ですよ。」と。 松平文庫のきっかけはなくとも、僕のような問題児には、声掛けしてくれていたのだろうと思うと、改めていい先生に恵まれたなあと、心暖かくなる。 関場先生には、無礼覚悟で数十年ぶりにお便りを出し(当時の住所で届くかなと思いながら)、久闊を除すことが出来、電話までいただいた。松平文庫を巡るエピソードも覚えていてくださった。
by mmatusaka
| 2025-08-28 22:28
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